Motion 1961年8月29日録音
I Remember
You
All
Of Me
Foolin' Myself
You
Don't Know What Love Is
You'd Be So Nice To Come Home To
Out
Of Nowhere
I'll Remember April
It's You Or No One
Lee
Konitz (as),
Elvin
Jones(ds)
Sonny Dallas
(b)
5曲目のYou'd Be So Nice To Come Home
Toはヘレン・メリルの名唱で知られるスタンダード・ナンバーだ。この曲がコニッツの手にかかると、“You'd Be So Nice To Come Home
To〜”と唄われるお馴染みの甘くて退廃的なメロディが、いつまで経っても聞こえてこない。コニッツは、この曲のコード進行だけをもとにしてアドリブを最初から最後まで押し通してしまう。しゃあ、この演奏がYou'd Be So Nice To Come Home
Toだという意味がどこにあるのか、と言いたくもなるけれど。まるで曲そのものを最初から解体してしまったようで、だから分解的と言われることがある。
そのコニッツのプレイ自体は、同じ白人でアドリブ勝負のアート・ベッパーのように音色やヴィプラートのヴァリエィションで繊細な陰影で魅せるというのではなくて、ストレート一本勝負でアドリブのフレーズ創出にすべてを賭けている、というものだ。実際にコニッツのプレイを聴くと、不安定なフレージングのアドリブを延々と吹いていて、うねうねと細かな短いリフのような節がダラダラ続くように聞こえるかもしれない。コニッツに親しめない人は、それがダラダラと感じられて感情移入とか、乗ることができないのだろうと思う。コニッツのフレーズは音の飛躍が少なく、スムーズに流れるようなこともなく、階段を一歩ずつ上り下りするように訥々と音階の上下を繰り返す。ある人は分解的と呼ぶ所以だ。しかし、そのうねうねとした流りに乗っているうちに、恐ろしく新鮮だったり、キュートだったり魅惑的だったりする瞬間に出会うことがある。そしてまた、そうだからこそ、そのうねうねが恐ろしいほど緊張感を孕んでいる。それは、屈曲する激流を川下りするのにも似ている、あちこちで屈曲する川を下っていると屈曲した向こう側に想像もできなかった場面に出会うことがあるのだ。しかし、だからと言って油断していると激流に呑まれてしまうのだ。
ここでは、ペースとドラムだけの贅肉を削いだトリオという編成で、堅実にビートをキープするダラスのベースの上で、コニッツはテーマも吹かずアドリブ・ソロを吹き始める。それを包み込み、斬新なフィルインを入れてコニッツを挑発するのが、ドラムのエルヴィン・ジョーンズ。それを刺激に、また新しいラインを構築するコニッツ。それを聴いてさらにコニッツに迫るエルヴィン。ここでのプレイは、それだけ、それに終始し、徹底してそれをやっている。
そういうコニッツのプレイを聴いて、どう感じるか。かれのアドリブを追いかけるのもいい。これは、私の個人的妄想かもしれないけれど、最初に紹介したYou'd Be So Nice To Come Home
Toのプレイを聴いていると、分解されてしまったようなフレーズが延々と呟かれるように演奏されると、それは音楽がメロディをかたち作る前段階の状態で、ずっと待機しているような感じがするのだ。例えていえば、活火山でマグマが噴火口近くまでせり上がってきて、大爆発するのを今か今かとまちうけているような、という感じだ。だから、コニッツの演奏というのは大爆発直前の期待が最高潮に達したワクワク感とか緊張感に漲っている。しかし、その反面、最後ところで肩透かしを食ったような物足りなさも感じてしまうのだ。だから、コニッツのプレイを聴いてカタルシスを感じるとか、爽快感を持てるということはない。だから、聴く側に一定のコンディションや構えがないと、受け容れることが難しくなるのではないか。私も、落ち込んでいる時や疲れている時には、聴こうとは思わない。その意味で、聴き手を選ぶといってもいい。